道徳「国語との違い」

「道徳読み」のパートの一つである「道徳見つけ」について話しているとき、

それって「読み取り?」「国語と同じでは?」という話題になりました。

 

横山験也先生がブログで、

算数脳、国語脳、道徳脳について書かれています。

www.sakura-sha.jp

 

私は、ここに書かれていることや、今まで学んだことから、

国語は「叙述をもとに」、道徳は「経験をもとに」

と言うこともできるかなと思っています。

 

たとえば、国語の教科書に『大造じいさんとガン』という物語があります。

(以下、思いつきの内容をメモとして書き残しますので、読み取りの浅さには目をつむっていただけると有り難いです。)

 

この物語の中で、大造じいさんは、様々な作戦を立て、残雪を捉えようとします。

その作戦の中で、おとりのガンを使う作戦があります。

 

「おとりのガンを使った大造じいさんは、卑怯か、卑怯がないか。」

という問いを用いた実践があります。

 

叙述をもとに

・大造じいさんが狩人であること

・残雪が来るようになってから狩りがうまくいっていないこと

・ガンの習性を生かした、知恵ある作戦であること

・何年も時間を掛けて仕込みをしたこと

等を捉え、「卑怯ではない」と結論づけるのが一般的だと思われます。

 

しかし、道徳では、、、

子供たちの中に狩人はいません。(いや、いるかもしれませんが。)

 

では、子供たちに道徳の時間に

「おとりのガンを使った大造じいさんは、卑怯か、卑怯がないか。」

と問うたときに、何をもとに判断するかというと“経験”ではないだろうかと思うのです。

 

そして、道徳の学習では、叙述をもとに「卑怯ではない」と結論づけることが重要なのではなく、

「なるほど、卑怯だと思う人は、こういう考えを持っているのだな。」

「そうか、そういう見方をすれば、卑怯ではないという判断もありだな。」

というように、自分の考えとは異なる考えを受け入れ、

様々なものの見方を身に付けることが重要なのだと思います。

 

「道徳見つけ」で線を引き、善悪の判断をするときには、個々の経験がもとになります。

だから、同じところに線を引いていて、Aさんは善と判断し、Bさんが悪と判断していてもよいのです。

善か悪かと答えを出す必要はないのです。

 

このように書くと、

『「登場人物が、店の物を盗んだ」という文に線を引き、善としている子がいてもよいのか』

という疑問が(極端ですが)浮かぶ方もいるかもしれません。

 

これ、たぶんダメなんですけど、

登場人物がとても貧乏で、子どもに薬も買えない状況で、、、

という状況だったらどうでしょう。

 

「いや、それでもだめだろ。」

「うわぁー、その状況じゃしょうがないかも。」

 

意見が分かれるのではないでしょうか。

 

では、このお話の中にある叙述について一つ一つ検討し、判断しますか?

それは、国語の学習で行うことだと思います。

 

道徳の学習では、迷えばいいのです。

自分だったらどうするだろうかと考えればよいのです。

友達はどのように考えているのだろうかと意見を交流すればよいのです。

正解のない問題のままでよいのです。

 

しかしながら、この一部分だけを扱っても考えは深まりません。

「道徳見つけ」で前後の文も読み、つなぎ合わせていくことで見えてくることもあります。

 

道徳の教科書の指導書をみると、問いが大きく3つ程度あります。

前後のつながりが学習を深めていくことになるからだと思います。

 

「道徳見つけ」をすることで、自然と前後のつながりを意識しながら

資料を読み進めていくことができます。

「道徳みつけ」は、自力で学習を深める、道徳について考えられる子供たちを

育てることのできる可能性を秘めた指導法だと思います